心の奥底から湧き上がってきた言葉で、自分を見つめよう

クライマーズ・ハイ

ひまわりちほりん

おまえんちの母ちゃんさあ、パンパンなんだってなあーー。


やはりそうだった。
昔、公園で出会ったあの高校生が伊東だったということだ。

昂(たかぶ)りは収まりつつあった。
伊東は言いすぎた。

ことによると秘密を知られているのではないか。
そう思っている間が最も恐ろしいものなのだ。

知られているのだとはっきりわかってしまえば恐怖の大半は過ぎ去ったも同じだった。
死んだ母親が淫売であろうが何であろうが、
もはや四十になった男の弱みにも瑕疵(かし)にもなりようがなかった。


悠木は次の原稿を手元に引き寄せた。赤ペンを入れる手は止まらなかった。

心の奥底に葛篭(つづら)を抱いていた。
その中には悠木を破滅させる穢(けが)れが詰まっていると思い込んでいた。

長い年月、怯えて生きてきた。
必死で葛篭を隠し、蓋を押さえてつけてきた。

だが、開いてみれば、中に詰まっていたのは哀しみだけだった。
戦後の混乱期に夫に蒸発され、乳飲み子に泣かれ、ずるい目をした男たちに縋(すが)り、そして、誰一人葬式に現れてもくれぬ生涯を過ごした憐れな女が横たわっていただけだった。



横山秀夫著「クライマーズ・ハイ」より。
cover



昭和60年8月12日に羽田発大坂行きの日航123便ジェットジャンボ機が御巣鷹(おすたか)山に墜落し、520人が死亡したが、それを題材にした本だ。


私の心の中にも、開かずの葛篭(つづら)がたくさん入っている。

母親への恨みが入った葛篭、非常識なことをしでかした恥ずかしさの入った葛篭、公園でママ友ができなかったつらさの入った葛篭、大好きな先生に気に入られず自分を否定された悔しさの入った葛篭・・・。


それらの葛篭を開けてしまうと何が飛び出してくるのかわからなくて、私はこわくてこわくて手をつけずに放っておいた。
でもそれは、消えることなく私の心の中に存在し続ける。


けれどもどうしても、犬のうんちの後始末のことで文句を言った近所のおばさんに今日も無視されたり、他の子どもたちには声をかけるのに我が子だけには声をかけない先生に下手に出てご機嫌伺いをしてしまったり、しょっちゅう行く郵便局の局員のある女性にだけいつも面倒くさそうな顔をされたり、そういう毎日の苦しみを吐き出さなければ葛篭にたまる一方で、私自身がパンクしてしまう。

そうだ、昨日のいやだったことを吐き出さなければ、今日を明るく生きてはいけない。
他人から見て、私のほうが間違っているんじゃない?と思えても、私自身の苦しみを吐き出さなければ反省もできやしない。


昨日のつらさを、まず吐き出そう。

昨日はスラスラ書けると思っていた原稿がなかなか書けず、一日中イライラしていた。
なぜ思ったように書けないのか、あるいは一日長時間、一人でいられる時間がとれれば書けるのかもしれない。
でも娘は幼稚園に行こうとしない。
ああ、もっと一人の時間がほしい!

しかも、息子が体調が悪くもないのに学校を休んだ。
そう、一人になりたいのに息子も娘の家にいたのだ、時々うるさい兄妹げんかをしながら。
昨日はしょっちゅう、子どもたちを怒鳴りつけていた。


それにしても朝学校側に電話をするとき、息子の休みを許す私がまた教頭先生に叱られるのではないかととてもビクビクした。
私としては、息子を強制的に行かせようとするほうが息子の不登校につながるのではないかという恐れがあり、たまになんだから自由に休ませてほしいと思っている。
けれども以前、教頭先生に親として甘いのではないかと言われたことがあった。

今日一日休むだけで、明日からはまた学校に行くと息子は言っていると言ったのに、一日休むと明日もまたとずるずるになりますよと、嫌味を言われたのだ。
今日だけ息子が学校を休むのは長期的にみれば必要なことのようだと、親として判断したのに。


昨日は教頭先生に叱られることもなく、息子にも私にも優しい担任教師と話ができて電話を切ったのでホッとしたのだが、以前の悲しみがずっと心に残っていたんだなあ。


かわいそうな私。
以前教頭先生に叱られたとき、とってもいやだったんだなあ。

私なりにきちんと息子のことを考えて出した結果だったのに、頭ごなしに否定されて悲しかった。
また私自身も、自分の息子に対する考えをきちんと言語化して、教頭先生に伝えられなかった。


今書き出してみると、自分がそれなりに息子のことを考えて学校を休ませると出した結論だとわかる。
でもそのときは感覚的に休むと決めて学校側に電話し、教頭先生にいざ反論されると、しっかりと自分の考えを言葉で表現できなかった。
その悔しさが、自分の中にあるようだ。


相手に自分の考えが受け入れられないというより、自分で自分の意見や感情を言語化できないことへの苛立ちなんだろうか?

そうなのかもしれない。
書き出すと書き直しながらも文章化できるが、話しながら自分の考えをまとめることに私は慣れていない。
パソコンを打つときは、安心した気持ちで落ち着いて自分の気持ちを探れるが、相手がいるとどぎまぎして、自分の内面を見るどころではなくなってしまう。


いや、本当は自分の気持ちを私はわかっている。
けれども自分の意見に自信がなくて、言えないのだ。

私の息子は一日くらい休ませた方が長期的に見ていいのだと教頭先生に言うことが、恥ずかしいと思っていた。
アホだと思われたらどうしようとか、一日休ませるとずるずる長引きますよと反論されたらどうしようとか。

自分の意見をぶつけられない自分に、イライラしてたんだね、本当は。
教頭先生が悪いのではなく。


ああ、何日もたってからようやく葛篭を開けて、やっと葛篭の重みから解放される私。

葛篭が重くなったと違和感を感じたら、なるべく早く開けよう。
開けるのが遅くなれば遅くなるほど、何が入っているのかという恐怖がたまってもっと重くなってしまうから。




←戻る|| 夜と霧(ひまわりちほりん)             

             (ひまわりちほりん)まわりみち極楽論 人生の不安にこたえる ||次へ→

▲ページのトップに戻る

直感力や記憶力、集中力がアップする奇跡の思考ツール
今話題の「マインドマップ」とは?



マインドマップ セミナー


マインドマップの書き方


毎朝1分★天才のヒント



天才のヒント

※当ページの無断転載はご遠慮ください。
© 2005 100人のこころ all rights reserved.